高校野球:清沢忠彦選手
先日から高校野球選手権大会で熱闘が繰り広げられている。
ことしは5年ぶりに県立岐阜商業高校が出場していた。
自分がまだ中学時代、高校野球では 後に巨人で活躍する早稲田実業高校の王選手のよきライバルだったのが、岐商の清沢忠彦選手。
昭和31年春から4季連続出場。その年はいずれも準優勝だった。翌32年夏、ノーヒットノーラン記録を立てる。ところが次の日だったか、王選手も(何と大阪の寝屋川高校相手に)ノーヒットノーラン記録を立ててしまった。
この年は早実が優勝し、大優勝旗が始めて箱根を超えた年であったとも思う。
『清沢 延長で力尽く』新聞の大きな見出しを覚えている。
その後慶応大学へ進学されるが、王選手はプロへ行ったため 早慶戦での対決はない。
就職されてからは、今度は審判として甲子園へ帰ってこられた。「審判:清沢」とあると、テレビ観戦していた。審判の名で観戦する人など無いだろうと思っていたら、ご近所の奥様で一人おられた。その方のご主人が住友関係だったのだ。
高校へ進学してからの名勝負としては、魚津対徳商の引き分け再試合が印象に残っている。魚津の村椿選手も今に語られる名投手だ。その時の相手が、タレントの坂東である。引き分けて還ってくる時の写真が当時とっていた「YouthCompanion」という英語学習雑誌の表紙を飾っていた。
あと、時代はかなり下って 群馬中央高校の松本投手も好きな選手だ。完全試合をしている。相手はまたも近畿勢で、確か比叡山高校だった。筑波大学を出て監督となり甲子園へ戻ってきている。PL相手にあわやというところまで戦った。惜しかったなぁ(って、大阪人が言ってるのだよ>群馬の方)
と、昔語り治療は今宵も続くのであった。明日は人間ドック。頭も検査して貰った方がよさそうだなぁ。
さて、大阪に居住しながら何故に岐阜商を応援していたかというと、父母の故郷が岐阜県だから。郡上踊りで名高い八幡の奥でありまする。
2年前、長男・徹也と共に 小旅行した土地でもある。あの旅は楽しかったなぁ!
2006年8月20日追記
早実が優勝したのは、1957年春の選抜高校野球だった。紫紺の優勝旗が初めて箱根を超えたのである。
2006年8月21日追記
ご承知の通り、早実が初優勝した。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 我が家の「米騒動」つづき(2024.09.13)
- 今頃つくつくぼうし(2024.09.11)
- 我が家の「米騒動」(2024.08.29)
- 「ノート」に悩む(2024.08.27)
コメント