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2006.01.27

月命日:手を合わせる

自分が幼い頃から敬愛している叔父からの葉書に、日々の暮らしの中で手を合わすことがあること、そしてそういうとき、徹也君を想い(親である)お前たちのことを想うといったことが書いてあった。

この叔父は徹也の葬儀のあと帰郷してから、葬儀での徹也の友人達の姿に触れて感動したと電話をしてきた。「お前たちの育て方に感謝する」とも。

叔父は、数年前から道元をよく読んでいる。

学校で「いただきます」を言う際、手を合わせることに「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいるという。
確かに強制されることではないが、自然な発露としての手を合わせるという行為は、とても美しいものだと思う。

「手を合わす」とは、右手を左手を合わすことで互いに相手を敬う気持ちを持つことだと聞いたことがあるが、宗教的なこと、信仰心を抜きにしても自然な気持ちの表れではないだろうか。


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コメント

ぞふぃです。ご無沙汰いたしております。
先日の「いただきます」についての記事も大変興味深く読ませていただきました。出遅れた感があってコメントを出しそびれてしまいましたが・・・

>学校で「いただきます」を言う際、手を合わせることに「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいるという。
>確かに強制されることではないが、自然な発露としての手を合わせるという行為は、とても美しいものだと思う。

あいさつにしろ手を合わせる行為にしろ、意味がどうこうではなく、自然な発露として湧き出てくるからこそ価値があるように思われます。

感謝するべきとか必要ないとか、それを考える以前に無意識に口に出来る、そんなあいさつができるようになりたいです。
手を合わせる、手を組む、コウベをたれる、それらも皆同じなんでしょうね。

投稿: ぞふぃ | 2006.01.27 17:36

ぞふぃさん、少し書き加えたりしているうちに横のMyBlogListを見て、そちらへお邪魔していました。
ちょうど入れ違いになってしまいましたね。

∥感謝するべきとか必要ないとか、それを考える以前に無意識に口に出来る、そんなあいさつができるようになりたいです。

そうですね、あいさつとは本来儀礼的なものではなく、無意識に出てくるものだったと思うのです。その中に、相手を思いやる気持ちが自然に込められているのではないでしょうか。

投稿: | 2006.01.27 17:59

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