新藤兼人【老人読書日記】
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新藤兼人〔著〕 出版 岩波書店(岩波新書) 発売日 2000.12 定価 \693 (本体 : \660) ISBN 4-00-430706-6 bk1で詳しく見る |
帯には、『88歳スーパー独居老人の読書エッセイ』とある。
長年連れ添った妻乙羽信子さんが亡くなって6年、著者は仕事場としての家でひとり暮らしをしている。朝6時に起きてからの毎日は、ほぼ規則正しい生活である。しかし、午後7時にお手伝いさんが帰ってから就寝までの時間の中で、ふと忍び寄ってくる孤独感。
そういうとき、いきなり立って、手当たりしだい本棚から三、四冊ぬき出したりする。
わたしを孤独から救いだしてくれるのは一冊の本だ。新しい本をひらくのはヒミツの扉をひらく気がする。古い本もまたいい。そのときどきの生きた時代に出会える。
そのむかし、わたしの心をゆり動かしたものが、いまはどんな姿をしているだろうか、別れた恋人に出会うような気持ちである。(「まえがき」より)
取り上げてあるのは、洋の東西を問わずおそらく今や古典と思われている作家達。
「西田幾多郎からシェークスピアへ」では、戦時下、古本屋の親父さんの好意で借り受けた「近代劇全集」43巻を、夢中になって読んだことが書かれている。この全集は、2年足らずで読了している。本を返しに行ったとき、古本屋の親父さんは、お金を取らなかった。古本屋さんには、時にこういう方がいらっしゃる。
その間、妻を結核でなくし遺骨を雫石の妻の実家へ持っていくときの話など、ホロッとさせられる。
本というものは、求める心がなくては、いくら読んでも通り抜けるだけだと知った。毎日新鮮な液体が注入してくるのがわかった。著者のシナリオへの原点が、ここにあるように思う。
ドストエフスキーの描いたラスコーリニコフのこと、また永井荷風の断腸亭日乗の日々についての記述など、新鮮である。
漱石と子規、テネシー・ウィリアムズ、チェーホフについては、「私」即ち自分自身について書かれている。
彼らの、作品への現れ方やその背景について、あらためて著者の受け止め方に感じ入る。
フィクションは事実を元にしてはいても、書いたものの責任で物語を膨らませることがある。
ノンフィクションは、事実を淡々と述べることによって、逆に人物像を浮かび上がらせることもあると思われたのが、『ゲイリー・ギルモアの「私」』であった。
殺人犯として処刑された兄を持つ弟が、自身や家族の目を通して兄を語っていく『心臓を貫かれて』は、おそらく原本を読むと衝撃的だろう。
しかし、最後の棄民たちの「私」は、もっとも衝撃的であった。澤地久枝氏の著作を中心に、旧満州国で祖国に捨てられた人たちを述べている。しかし、捨てられても尚、祖国を思う気持ち。
胸に吊る三角巾に嬰を抱き一人(ひとり)は負へり祖国への路著者も選者として関わった「シニア万葉集~時代の証人として~」より、埼玉県の77歳の主婦の歌。
老人読書日記
2000年12月20日第1刷発行
2001年4月12日第4刷発行
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