【一匹の蚊】
およそ戦争に参加した人なら、命拾いの経験のない人はまずいないだろうと思われる。私もご多分に漏れず、命拾いの経験は数回あるのだが、そのうちの一回は、昭和十九年の秋のことで、場所はフィリッピンであった。
私は当時陸軍主計少尉で、第八師団経理部員であった。第八師団は原隊が青森県の弘前市で、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」で有名になった青森の歩兵第五連隊、弘前の歩兵第三十一連隊及び秋田の歩兵第十七連隊を基幹とする、東北健児の精鋭師団で、実に気分のいい集団であった。
昭和十六年の「関東軍特別大演習」と称する動員で、第八師団は満州国牡丹江省の緩芬河に程近い緩陽地区に駐屯し、ソ満国境を守っていたが、アメリカ軍の北上に備えるため、昭和十九年七月フィリッピンに転出の命令が下達されたのである。
第八師団は、同じく満州孫呉にいた第一師団や勃利にいた戦車第二師団などと共に船団を組み、苦労して南下したが、台湾の高雄からフィリッピンのマニラに向う途中、パシー海峡でアメリカ海軍の潜水艦から攻撃を受けたので船団を解き、師団の主力はルソン島の北端に近い「サルマギ」という漁港に上陸、陸路ルソン島を縦に徒歩と鉄道とによって南部ルソンへと輸送を開始したのである。
私は師団の行軍途中における給養に任ずるため、サンフェルナンド市にあって後尾の到着を待っていたが、いつの間に蚊にさされたのか、デング熱にかかり高熱を発して臥っていた。そのとき師団司令部から「○○主計少尉タナワンの司令部へ前身すべし」との電報を受取ったしかし熱発中で動けないので、その旨返電してもらった。
デング熱は俗に六日熱ともいわれ、その後三日もするとすっかり熱も下り元気になったので、鉄道を利用して司令部に追求した。そこで聞いたところ、次のような話であった。
レイテ島の戦局は苛烈をきわめており、山下方面軍の命により第八師団は歩兵第五連隊をさいてレイテ島の西岸オルモックに上陸させるべく、欠となっていた一ヶ大隊を編成する必要があったが、その大尉附主計として、私が間に合わないので、白井という経理部見習士官を充て、部隊はすでに出発したということであった。
その後の情報によると、第五連隊は軍艦に分乗して夜陰に乗じレイテ島に接近したが、払暁敵の飛行機の猛撃を受け、陸地を目前にしながら全員海中に飛び込み、上陸集結後激戦に激戦をくりかえし、食料弾薬の補給も殆どなく、遂に全滅したということであった。
私はデング熱にかかっていたために、レイテには行かず命拾いをしたが、一方白井見習士官は不幸にも身代りとなって命を落とされたのである。お気の毒というより他はない。そして、こうして二人の運命をわけたもとはといえば、一匹の蚊であったともいえるのである。人間の運命には、こうしたこともあるのだなあと、思い出すたびに感慨にふけることである。
終戦を知ったのは昭和二十年九月半頃だった。内地帰還は頗る早く、同年十一月三日に鹿児島に着いた。家が大阪市此花区にあったので案じていたが、幸い父母も健在、家も奇跡的に残っていた。父母が必死で延焼をくいとめたという。住友化学に復職することもできた。爾来昭和五十六年五月まで三十六年間、住友化学、日本エクスラン工業、旭一シャイン工業などで働かせてもらった。二人の男の子は、それぞれ結婚別居、妻と差し向かいの生活である。庭いじり、テレビ、ラジオ、読書、気が向けば厨房に入ることもある。
これが私の現況である。
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